☆ワンポイントシリーズ9 (横浜外国人墓地記念会)
2023/01/14
横浜外国人墓地には関東学院関係者である外国人宣教師とそのご家族が眠っており、関東学院は毎年「横浜外国人墓地記念会」を守っています。
下記は毎年の記念会で配られる次第に書かれているものから転記しました。
- アルバート・アーノルド・ベンネット Albert Arnold Bennett
1879年12月来日。1880年日本人伝道者養成のために説教指導を行う。
1884年3月7日ブラウン宅で京浜地区の宣教師会があり、ベンネットの提議で神学校を設立することが可決。10月6日横浜バプテスト神学校を創設し校長となる。「聖書釈義」「説教学」を担当。
ベンネットは25年間横浜バプテスト神学校教授として学生を指導、最初の10年は校長。1909年10月12日召天。横浜外国人墓地に埋葬される。
讃美歌48「しずけきゆうべの」はベンネットの作詞。関東学院教師藤本伝吉はベンネットの生き方を讃美歌213の詩にした。
~ 墓碑銘 He lived to serve
- ネイサン・ブラウン Nathan Brown
1873年に65歳で来日。聖書の翻訳に使命を持ち、1879年に72歳で日本語最初の新約聖書全訳を平仮名表記により翻訳出版した。
ブラウンはベンネットが進めていた神学校創設を側面から援助し、1884年3月7日ブラウンの自宅で行われた京浜地区の宣教師会で、ベンネットが提案した神学校創設を受け入れ、神学校のために土地と建物が購入できるように、ミッション本部に依頼した。1886年1月1日召天。横浜外国人墓地に埋葬される。
~ 墓碑銘 God bless the Japanese.
- チャールズ・ヘンリー・ディ・フィッシャー Charles Henry Day Fisher
1883年3月来日。1884年に横浜バプテスト神学校が開校した時の教授。
宣教師として水戸に伝道中に、水戸中学校から英語教師の依頼があり、クレメントを斡旋した。クレメントが東京中学院の学院長になった時、その働きを助けた。来日37年間日本人を愛し、そのために全生涯を奉げ、1920年2月2日に横浜で召天。横浜外国人墓地に埋葬される。
- チャールズ・バックリー・テンネー Charles Buckley Tenny(夫人グレース、子息ポール)
1900年来日。1908年に横浜バプテスト神学校教授就任。
1910年、2人目の子の出産の際、妻グレースが逝去、子のポールも喪う。横浜外国人墓地に埋葬される。
1913年に日本バプテスト神学校校長に就任。1917年東京学院長として中学部を閉校する。1917年に有吉神奈川県知事の斡旋で「兵隊山」の払い下げが決まると、直ちに帰国して資金調達に奔走。1919年私立中学関東学院設立者・理事長に就任。1927年財団法人関東学院が組織され、東京学院がこれに合併し、学院長と神学部長に就任。1930年、病のため学院長を辞任し、帰国。名誉院長に任ぜられる。1936年1月11日アメリカで召天。
- ジョナサン・ゴーブル Jonathan Goble(夫人エリザ、娘ドリンダ)
1860年4月来日。ゴーブルは1853年、ペリー艦隊の水兵として浦賀に来航している。その7年後、アメリカ自由バプテスト教会最初の宣教師として来日した。1871年、日本語による最初の翻訳新約聖書(一部)『摩太福音書』を出版。その後一旦帰米し、1873年ゴーブル夫妻は、N.ブラウン夫妻とともに来日し、横浜第一バプテスト教会を創立した。1896年5月1日召天。セントルイスのベルフォンテン墓地に埋葬される。
~興味を持たれた方は、下記もぜひご覧ください~
~偶然ですが、関東学院が発行する広報誌最新号の表紙は上記の宣教師のお墓です~
「学院史資料室ニューズ・レターNo.25」
★上記のP9もぜひご覧ください。香葉会の山口会長が寄稿されています。
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